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終業ベルの音で文雄は目が覚めた。鉛のように重い体をソファーの上から起こし、鈍く鳴り響くベルの音を、ハッキリとしない意識の中、鼓膜の奥で感じていた。暫くし、はずみをつけてソファーから出ると、脇に置いてあるバッグを背負いテーブルに置いてある誰のものか分からない週刊誌を手に、文雄は誰よりも先に休憩室を後にした。
誰もいない通路にはカツカツという文雄の靴音だけが静かに響いた。力を込め重い扉を開けると、強い朝の日差しが文雄の目を射した。文雄は「ふっ〜」と一息入れた。重い鉄の扉が今日一日の終わりを告げるかのように、ゆっくりと静かに閉まった。
武田文雄、二十八歳。理工系専門学校を卒業後、一度コンピューターソフト系の小さな会社に就職したが、連日の深夜残業と社内の人間関係に嫌気がさし数年で退社。その後は幾つかのバイト先を転々とするフリーター生活を送っていた。趣味はインターネット。今の印刷工場のアルバイトを始めて約半年になる。構内作業などの肉体労働もしていたが、もともと体力に自信のない文雄にそう長く続く訳もなく、ミスをする度ごと古株の連中から理不尽な罵声をあびせられ、無断欠勤の末に姿を消した。今のご時世、そう割りの良いバイトなどあるはずも無く、最低限の生活確保の為今のバイトを選んだ。「悪いね〜。せっかく来てもらったのに。今、昼勤が人一杯なんだよね。もう募集止めるように言ったんだけど、人事の奴何してんのかなぁ、まったく。夜勤ならまだ空きあるけど、どう? 早くしないとこっちもすぐ人一杯になっちゃうよ。」よくある話だ、そう思いながらも文雄は生活の為にと、二つ返事でお願いした。しかし、長時間の単純作業と不規則な生活は想像以上に文雄を打ちのめした。途切れる事の無い印刷機の音と強いインクの臭い、それが文雄の生活のほとんど全てだった。
まだ誰も乗客のいない始発電車に乗り、家路へ向かうのが文雄の日課となっていた。汗と油にまみれ、泥のように疲弊した体を座席に横たえ、眠気の中、見るともなしに流れ行く外の景色に目を向けていた。
そんな繰り返しの毎日にある時変化が起きた。いつもと同じ風景に見慣れぬ景色が加わった。文雄は最初気にもとめなかったが、何日かその姿を見た時偶然でないことを知った。
線路沿いの真っ直ぐな一本道。約500メートルほどであろうか。まばらに並ぶ民家以外には何も無いただの真っ直ぐな道。人気もまだないその道の端にある一本の電信柱に、ある女の姿を文雄は目にした。電柱に身をひそめるように、ひっそりとたたずみこちらを向いていた。歳は20代前半くらいか。ほっそりとした長身の色白、白い帽子に、白いブラウス、白いレースのスカートに身を包んでいた。いつもはシートに腰を下ろしている文雄だが、その姿を何度か目にするようになってから電車の扉の脇に立ち、数十メートル先にたたずむその女の姿をぼんやりしながらも待ち望むようになった。
あの女は何者なのか? なぜこんな早くからあんな場所にいるのか? 仕事中もその思いが文雄の頭の中から離れなかった。
一週間ほどあいにくの雨が続き、その女は姿を現さなかった。このままもう女は姿を現さないのだろうか? そう思った次の日の雨上がりの朝、女はいつもの場所にいた。文雄はいつも以上に電車の扉に顔を近づけ、可能な限り目を凝らしその女を見ようとした。直立不動のその姿からは意志の強さが伺えた。と、その時だった。女と電車がすれ違うまさにその瞬間、女は文雄と目を合わせ、そしてほほえんだ。その一瞬の出来事は文雄を激しく混乱させた。あっという間に風景と共に通り過ぎて行った女の姿を、文雄はいつまでも目で追い求めた。
一体何が起きたのか? 文雄は考えようとすればするほど冷静さを失っている自分を発見した。
「まさか。なんで見ず知らずの俺を見てほほえむんだ? たんにそう見えただけだろう・・・。俺も相当な欲求不満だな。」苦笑いをしながら文雄は自分に言い聞かせ、電車の座席に投げ出すように身を沈めた。目を閉じ、少し眠ろうと文雄は思ったが、いつも以上に感じる電車の揺れがそれを邪魔した。しかしその夜、以外にもその気億が文雄を苦しめた。細部まで思い出すことは出来なかったが,まるで切り取られた1枚の風景画の様にその女の姿が執拗に文雄の脳裏によみがえった。
次の日の朝、文雄は全神経を集中させ、いつものあの場所が近づいてくるのを待った。遠くからでもあの女がひそんでいる気配を痛いほど感じた。電車が近づき、すれ違うその瞬間、今度は女が胸元に大きな白い紙を掲げている姿が飛び込んだ。紙に書かれた大きなその文字に文雄は我が目を疑った。
−来て−
その文字を見た時、熱いものが全身を駆け巡り、それまで文雄の内部に存在した幾つかの疑問を瞬時に吹き飛ばした。
文雄の心は決まった。
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